鈴北糸の雑記帳

三人組創作ユニットがなんとなく始めたブログ。

17ページ目:あの時の私は大人になれるって思ってたんだ

こんばんは。糸です。なぜか月曜日に更新しています。いやもう火曜日ですが。まあ諸事情が重なりに重なりまくった結果です。今週はきっと2回更新するんじゃないですかね。おそらく、ですが。

 

皆さん高校生の時に大学生って大人だなあ、と思っていませんでしたか。なんなら小学生の時は中学生を大人だと思っていたし、中学生の時は高校生を大人だと思ってはいませんでしたか。ちなみに私はとてもそう思っていたし、そうだと信じて疑いませんでした。というか中学3年生の時に散々アホやってるんだから高校1年生になろうが何も変わらないという事実になぜ気づかなかったのか。環境が変わろうとなんなら学校が離れようと君は北と散々アホやってるんですが(現在進行形)なぜ希望を見出そうとしてしまうのか。過去の自分に対して突っ込みたいことが山のようにありますね。

本題に戻りましょう。なぜほんの少し年上なだけの存在はああも大人に見えるのでしょうか。そもそもほんの少し年上の存在は本当に自らと比較して大人なのでしょうか。いやもうね、大人なんですよ!!!って言いたいけど無理です。少なくとも糸は仮に電車とかで見て大人っぽいな、って思われてたら申し訳なさしかありません。今、あなたが大人だと思って見ている人は多分あなたが同じ年齢になった時に考えたら全く大人じゃないよ!!!としか言えません。まあそもそも大人っぽいと思われているのかは非常に怪しいですが。

そもそも大人っぽく見えるのって自らの理想が何かしらの形で具現化されているのを感じるからだと思っています。こんなふうに化粧をちゃんとしたいとか、流行っている洋服を着こなしたいとか、何かしらきちんとやり遂げられるようになりたいとか。少なくとも私の思う大人っぽいの中には常に何かしらの憧れが含まれていて、純粋に憧れるのではなく、こうなりたいと憧れている状態を普賢化している人に対して大人っぽいと思っているのです。つまり私にとっての”大人”の理想像の一部を持っている人が”大人っぽい”と思う人ということになります。

とはいえ糸だってそれなりに歳を重ねているわけです。中学生や高校生の時はこの年齢になった時のことを大人になったら、と称していた記憶だってあります。でも大人じゃないのです。まあそれなりに中学、高校の時の自分が考えていたような生活をしているのは事実ですが、それでも私は大人じゃないと自分のことを思っています。結局は大人という曖昧で不確かな定義を自らの中で確立した定義とするしか大人になる方法はないのではないかと思い始めています。それにしても曖昧で不確かな定義を確立できるだけの材料を手に入れなくてはなりませんし、きっと多分糸が”大人”を定義して”大人”になれるには短くてもあと数年かかるのではないかと思います。

 

*余談(その1)

北にはほのぼのな日常をお楽しみくださいとか書かれていたような気が大いにするのですが、そもそも日常的なブログをしていたのだろうかという気持ちになっています。そのうちなんか面白い日常をお届けできればいいのですが、人生にそんな一大スペクタクルのようなことはなかなか存在しないのであまり期待しないでください。面白くない日常は定期的にお届けしたいと思います。

 

*余談(その2)

諸事情が色々あったわけですが、往々にして要領が悪いことが原因です。というか要領がわるわるのわるなので壊滅的に色々なことが進みません。ところで要領って打ちたいのに先に変換で容量って出さないでいただきたい。(理不尽)誤字しては打ち直し、打ち直したのに誤字をするので容量→要領変換を片手で数えられる回数以上はしました。これは単純にガバですね。

 

それではよい一週間をお過ごしください。